2014年12月23日火曜日

自然と暦と生活








沖縄の八重山諸島、西表島の道の終わり、南の果てに南風田(ハイミダ)というビーチがある。今ではどうだか知らないけれど、15年くらい前、そのビーチには何ヶ月、中には何年もキャンプしながら住んでる人達がいた。



僕もその浜に一月ぐらいテントを張って暮らしていたことがある。

目の前にはエメラルドグリーンの海とサンゴ礁が広がり、小川がいくつも流れていて飲み水には困らないし、その辺を歩くヤドカリを餌にして魚を釣ったり、ヤシガニを食べたり、気が向いたら海に潜って魚を突いて、昼寝して、たまにヒッチして街にでて食料を買い込んできて、夜はその辺の人たちと火を焚いて酒を呑む。

みたいな感じの日々を過ごしていた。







都会に住んでいると、月を見ることも海を見ることもないけれど、それだけ海の目の前にいると、海の満ち引きと月の動きがリンクしていることが肌で感じられる。





日本の旧暦は太陰太陽暦といって、月の初めの一日が新月で、十五日目が満月になるようにできている。東京ではあまり使わなくなってしまったけれど、今でも沖縄の人たちはこの、月の動きにあわせた暦をよく使う。



厳密に言うと微妙にずれているけど、基本的には新月(一日)や満月(十五日)の近くになると干潮と満潮の差が大きい大潮になるし、半月(七日・二十二日)の頃はその差が小さい小潮になることが簡単に分かるので、海の近くで暮らすには非常に合理的な暦だな、とその時感じた。







世界には他にも色んな暦があって、太陽を崇拝していたインカでは太陽の動きを元にインカ暦を作り上げ、特に太陽の力が一番弱くなり、そこから再生していく冬至を一年の始まりとし、盛大に祝う。(これが南米三大祭りの一つ、ペルーのインティ・ライミと呼ばれる祭り。)



北欧では今もミッドサマーと呼ばれる祭りがあって、火を焚いて(&お酒を呑みまくって)夏至を祝うというし、そもそもクリスマスは元々冬至を祝う「異教徒」の祭りだったものをキリスト教が取り込んで、キリストの誕生日にしたてあげたものと言われている。



日本のお盆だって昔は十五夜の満月の日にやっていたわけで、今風に言うなら盆踊りはフルムーンパーティだったのでしょう。







そんな風に、空を見上げて、月を見て、星を見て、太陽を見て、その動きを感じて昔の人が作り上げてきたのが暦なわけです。









さて、我々が今使っている「西暦」ですが、これはグレゴリオ暦と呼ばれ、古代ローマで使われていた暦が元になっているのだけれど、そのめちゃめちゃっぷりが面白い。



6月まではまあいいとして、7月はかの有名なジュリアス・シーザーが勝手に「これは俺の月!」と決めたので名前がJULYなった。そしてその後の皇帝アウグストゥスが「じゃあ8月は俺の月!そしてJULYより少ないのは気に食わない!」ということでAUGUSTと名づけられて31日になった。



そのおかげで2月は減り28日になっているし、9月のSEPTEMBERのSEPTはラテン語で「7」、10月のOCTOBERのOCTOは「8」(蛸が英語でオクトパスなのは八本足だから)、11月のNOVEMBERのNOVEは「9」、12月のDECEMBERのDECEは「10」を意味する。





つまり7月を9月と呼び、8月を10月と呼び、9月を11月と呼び、10月を12月と呼んでいるのがこのグレゴリオ暦なわけです。しかも1月1日に何の天文学的な意味もないし、春分も、夏至も、秋分も、冬至も、満月も、新月も、どこにも一致しない。










ということで、個人的にはこの暦、全く美しくない。







暦というのは生活を反映するんだと思う。



このグレゴリオ暦の正月が巡ってくる度に、我々現代人がいかに自然から離れた生活を送っているか、ということを感じずにはいられません。







とは言えめでたいことが多いのは良きことです。
なので、結論としては

Merry Christmas, Happy New Year, & Happy Solstice !



どうぞ皆様よいお年を!
新しき年が素晴らしい一年となりますよう






2014年12月15日月曜日

快眠のコツ その1 〜 睡眠と光








食事とならんで健康の要となるのが睡眠です。



つい最近、アメリカでCIAによるテロ容疑者に対する拷問の実態が明らかにされ話題となっていますが、その一つに眠らせない拷問というのも入っていたようです。この眠りをうばう拷問というのは、昔からどの国にもあるようで、とことんやると幻覚・幻聴に襲われ、最後には死に至ると言われています。




(ただし普通はいくら不眠といっても、そうなる前に必ず眠りに落ちるように体はできているので、不眠でお悩みの方はご心配なさらないでください。ちなみにギネスブックによる、普通の人が全く眠らずに過ごした最長記録は約11日だそうです。「私はもっと寝ていない」という方はギネス記録にチャレンジしてみるのも面白いかもしれません。)





「寝る子は育つ」と昔から言われますが、実際に科学的にも、眠っている間に放出されるメラトニンなどの睡眠物質により体の免疫作用が高まることや、成長ホルモンの働きにより成長の促進・体のあらゆる細胞の修復や再生・疲労の回復などが行われていることが分かっています。

(よく「睡眠をとることがお肌に大切」と女性が言うのも、この成長ホルモンの働きによるものです。)



また、夢は神様からのお告げという説もあれば、フロイトの様に潜在意識の願望を満たしているという説などもありますが、現代では、睡眠時に夢を見ることによって脳の記憶や情報が整理されている、という説が一般的になっているようです。

経験は全然ないけど体の勢いだけはある10代・20代ならいざ知らず、そこそこの歳になれば、きちんと眠らずに過ごした次の日の体のだるさや、集中力のなさ、イライラ感は誰もが経験したことがあることでしょう。



私たちにとって、よい睡眠をとることは、毎日を気持ちよく、すこやかに過ごしていく上で、決定的に大切な要素の一つです。






ということで、今回から眠りの質を高めるコツについて、3回くらいに分けて書いてゆきたいと思います。




まず今回はその1.「光」です。

「光」が私たちの睡眠のリズムや質に影響を与えているということを知っていたでしょうか?




私たちには体内時計と呼ばれるものが体に組み込まれていて、基本的には毎日自分が寝ている頃になると眠くなり、起きる頃になると目が覚めるように体ができています。


ただしこの体内時計は、地球の一日よりやや長い約25時間に設定されています。これはつまり、放っておくと毎日眠る時間は一時間ずつ遅くなっていって、今日の就寝時間が22時なら明日は23時、その次は0時…という風になっていくということです。

(このことは外界からの影響を全く受けない隔離された部屋での実験により証明されています。)





でもそれだと地球で暮らしていくには何かと不便なので、この体内時計は光をあびるとリセットされるように出来ています。それによって、私たちは基本的には24時ごとに、毎日決まった時間に眠くなるような体の構造になっていて、毎日の生活をリズムよく暮らせるようになっているわけです。





さて、この体内時計をよい方向に動かすためには、朝起きたらまず窓を開けて外の光を浴びることが大切です。朝の光を浴びることによって時計が調節されて、その15時間後に眠くなるように私たちの体はできています。


少し専門的になりますが、これは朝の光を浴びてから15時間後に、メラトニンというホルモンが脳から放出されるためで、このメラトニンこそが眠気を引き起こしてくれる物質です。またこのメラトニンには、どんなSODサプリよりも強力な抗酸化作用があり、免疫を高めてくれる力があると言われています。




なので、まず朝起きたら光を浴びましょう。






そして気をつけなければいけないのは、この体内時計は眠る前に光を浴びるとどんどん悪い方向にずれてゆき、また睡眠時に放出されるメラトニンの量が減ってしまうことです。


ここでいう光というのは、電気による光も含みます。特にPCや携帯の画面、テレビ、LED照明などはブルーライトを多く含み、このブルーライトは強烈に時計を狂わせることが知られています。(また、PCや携帯、テレビは脳を興奮させるので、そういう意味でも寝つきは当然悪くなります。)





それは、簡単にざっくり言うと、睡眠の質を高め、次の日の活力を得るためには、寝る前1~2時間は部屋を暗めにして、電子機器は使わないことが大切だ。ということです。

そして寝ている時は部屋は暗くしましょう。寝ている時にろうそく一本の明るさがあるだけでも、メラトニンの放出量が減ると言われています。



白熱灯はエコの観点からだんだん減りつつありますが、健康的な観点から言えば、少なくとも眠る前はLEDや蛍光灯ではなく、白熱灯の方がよいでしょう。






電気が発見される以前、私たちはごく自然に大きな自然のリズムと共に暮らしていて、昼は明るく、夜は暗いのが当たり前でした。


宇宙船から地球を撮った写真を見ると、夜でも光り輝いている部分があってそれはとても綺麗ですし、また光り輝く街の夜景は遠くから見るととても美しいです。電気のおかげで「便利」にくらせる様になったのは確かですが、その便利さと引き換えに私たちは多くのものを失ったのかもしれません。





それはさておき、

「寝ても寝ても疲れがとれない。」
「夜中に目が覚めてしまう。」
「ぜんぜん寝付けない。」


という方はまず光を意識してみてください。


朝の光を浴びること。夜は暗くして、電子機器をなるべく使わないこと。

が大切です。





次回は体温という観点から眠りについて書きたいと思います。


2014年12月5日金曜日

死体のポーズでリラックス



日本ではなぜか「女性が美容のためにやるもの」というイメージが非常に強いヨガですが、その本来の目的は、仏教と同じく「苦しみの輪廻の輪から解脱すること」で、ヨガはそのための修行法であり、悟りの境地(サマーディ)に至るための「道」の一つです。



悟りとか輪廻とか解脱とか言うと、やたらと小難しく、また宗教的に聞こえますが、平たく言えば「ゆるぎない心の平安を得る」ことがその目的である、という程度に僕は解釈しています。



なので当然、ポーズ(アーサナ)が綺麗にできるようになること自体がヨガの本来の目的ではないし、ましてやできるポーズの数が増えればいい、というものではありません。(はず。)





ちなみにヨガの八つの階梯(アシュタンガ)の初めの一つ、「ヤマ」と言われる5つの戒は、仏教の五戒とほぼ同じもので、よくヨガクラスでやる「アーサナ」や「プラーナヤーマ」はその八つの階梯の3番目と4番目にあたり、「サマーディ」が8つ目の最終段階ということになっています。









そんなヨガの数あるポーズの中で、誰にでもできて、一番役に立つ、と個人的に思うものを2つご紹介したいと思います。





その1つは瞑想・座禅のポーズ。
もう1つは死体のポーズです。





一つ目の瞑想・座禅のポーズというのは、結跏趺坐とか半跏趺坐とか、あるいは達人坐とか呼ばれる坐法で、要は座禅や瞑想のことです。元々遥か昔には、ヨガにはこの1つのポーズしかなかったと言われるくらいなので、その重要性は言うまでもないでしょう。



近年アメリカのビジネス界で瞑想が流行したことがきっかけで、日本でも瞑想の効用が見直されつつありますが、個人的体験からも、瞑想は心身を整えるためにもとても有効な手段だと実感しています。



瞑想については色々と書きたいことがありすぎて長くなるので、またの機会に譲りたいと思います。







二つ目の「死体のポーズ」、シャヴァーサナが今回の主題です。やり方はいたって簡単、仰向けになって寝転んで、体の一つ一つのパーツから力を抜いていき、意識を保ったまま完全にリラックスする。それだけです。



とかく日常生活でがんばっている我々は、体中のそこかしこに余計な力が入っています。それに意識を向け、気がついて、ちゃんと早い段階でケアしてあげれば何も問題はありません。


しかしそのまま放っておくと、段々と心身のバランスが乱れていきます。そしてその乱れが違和感になり、違和感が痛みになり、強い痛みや不調へと変わっていきます。この強い痛みや不調が出た時には、既に体はかなり悪い状態になっていて、そこまで行くと自分の力だけで治すことは難しくなりますし、治るのにも時間がかかります。





この傾向は頑張っている人ほど顕著で、そういう方は気が張っているので、気持ちがリラックスしていればすぐに気がつく様な、ちょっとした「自分の心身の異変」に対して非常に鈍感になっています。


「これくらい大丈夫、まだまだ大丈夫」と自分に言い聞かせているうちに、ある時、風船が段々とふくらんでいって破裂する様に、一気に自分が溜め込んできたものの大きさに気がつく時がくるかもしれません。そしてその時にはわりと手遅れなこともしばしばです。仕事柄、そうなってから後悔した方達を今まで散々みてきました。





何かに向かって頑張っている姿は魅力的ですし、それは素晴らしいことだとは思いますが、何事もメリハリが大切で、頑張っていればいるほど、むしろ逆に人よりも、リラックスする時間を意識して作ってあげることが、陰と陽のバランスとして必要なのではないではないでしょうか?







まずは、自分の体の感覚に意識を向けて、風船の状態に気がついてあげてください。気が付くことができたとしたら、それだけで確実に何かが変わっていきます。

そのためにも、この死体のポーズはオススメです。









ところで、ヨガの行者の中には自らの意思で、心臓の鼓動を止める(緩める)ことができる方がいらっしゃるそうで、それは科学的にも測定され、データとして残っているようです。


そしてインドにはなんと、仮死状態になって棺に入り、地中に埋められ、一月後に掘り出されて蘇生する。という究極の荒行があるそうです。


とは言ってもこの荒行、3人に2人はそのまま死んでしまうそうなので、そこまで頑張って修行してきたのに、そんなことするのに何の意味があるんだろう?と思わないでもないですが、そこが「一生片手を上げて天を支える!」という誓いをした行者もいれば、「一生片足をつかない」という行をする方もいる、インドの奥深さなのでしょう。







そんな行は我々には及びもつかない全く関係ない世界ですし、ヨガのポーズの一つにある足を自分の首の後ろにかけられる様になるポーズなども、勿論見ていてすごいな、とは思いますが、別に私たちのような普通の人がそれをできるようになる必要は全くないでしょう。









ですが、今回ご紹介したこの死体のポーズは、それがちゃんとできるだけで、心身の状態は確実に格段によくなること間違いなしです。どうぞ試してみて下さい。





自分の体と心の隅々に意識を向けてあげること。

自分の体と心に「今起きていること」に気がついてあげること。



全てはそこから始まるし、またそこに尽きるのではないかと思います。







2014年11月25日火曜日

Joy & Happiness




最近何でもない瞬間に「幸せだよな~」と感じることが多い。



近所の公園を散歩していて、木の葉が風に鳴っていて、木漏れ日がきらめいているだけで、何とも言えない幸せな気持ちに包まれる。雨の音が屋根に響くのを聞いていて、ただいいな、と思える。

そんな何でもないことを幸せだと感じられるようになったことが、何より幸せなのかもしれない。







昔は世界の果てまで旅しても、餓えていた。もちろん楽しかったけれど、満たされてはいなかった。白い砂浜に寝そべって、波音を聴いて、体はのんびりしていても、心はのんびりしていなかった。と今は分かる。



死ぬほど旅したからこそ分かった。
「どこにいるか」じゃないんだな、と。

死ぬほど旅をしたからこそ気がついた。
「あんなに旅をする必要はどこにもなかったな」と。

人生は面白い。
死ぬほど旅をした結論が、「旅をする必要はない」だとは。







有り余るほどお金をもったことはないけれど、多分お金も似たようなものでしょう。と何となく思う。そして他のものも。


きっとそれがこの世界のパラドックスなんだろうな。

ないうちは分からない、欲しい。欲しくてたまらない。
でも死ぬほどあると、なくても同じ、と分かる。

神様、やることが粋ですね。








昔読んだ本にJoyとHappinessは全く違うと書いてあった。

その意味が今ならよく分かる。



旅をすれば楽しい。映画を見れば楽しい。音楽を聴けば楽しい。好きな人と過ごす一時は楽しい。お酒を飲めば楽しい。薬にきまれば楽しい。


楽しいことは世の中にたくさんある。

けれど、楽しいものをいくらかき集めても幸せにはならないのね。残念ながら。







楽しみと幸せは根本的に違う。

楽しさは外側からやってくるけれど、幸せは内側からやってくる。
楽しみはやってきて去っていくけど、幸せはいつでもそこにある。



いつでもあるのに、気がつかない。
いつでもあるから、気がつけない。




これが人生の妙。

よく出来てるよなあ。







禅風にまとめてみた晩秋の雨の日でした。


2014年11月20日木曜日

「熱が出る」のは「悪い」こと?




突然ですが、「熱が出ること」 = 「悪いこと」 だと思っていませんか?


「熱が出ると頭は痛いし、体はだるいし、仕事も休まなきゃいけないし。さっさと解熱剤を飲んで下げてしまおう。」

そんな風に考えている方が世の中には多いと思います。




しかし、そもそも何故熱がでるのか知っていますか?






マラリアという病気があります。結構こわい病気で、僕の友人もアフリカでマラリアにかかってケープタウンで死にかけました。マラリアにもいくつか種類がありますが、基本的にどれもかかると高熱が出ます。




ではなぜ熱がでるのでしょうか?

マラリアという「病気が発熱を引き起こす」のでしょうか?




実はそうではありません。

熱が出るのは、「体が熱を使って病気を治そう」としているからです。





どういうことかというと、


マラリアと呼ばれる病気は、ハマダラカという蚊に刺されることによって、マラリア原虫という小さな小さな虫が血の中に入ることによって引き起こされます。この虫は体内に寄生すると、肝細胞で増殖し、赤血球を破壊しながら増えていこうとします。


赤血球は血液に乗って、「肺で取り入れた酸素を体の各部に運ぶ」という大切な役割を果たしていますので、これが壊されてしまうと、酸欠によって体の各部がダメージをうけることになります。これは体にとっては好ましくないことです。


そこで体に備わった「免疫」機能が働いて、この虫を体内から排除しようとします。赤血球と同じように血の中に住む、白血球やマクロファージがこの虫を感知し、捕まえて食べはじめます。この戦いが始まると、指令が脳にいき、体温が上がるのです。


それは、体温が上がると白血球の働きが高まり、逆にマラリア原虫の活動は熱によって制限されるからです。高熱がでて体が震えるのも、それによって熱が高めるために体が行なっていることです。





これが発熱の「しくみ」です。






つまりざっくり言うと、「体は高熱になることで虫を殺している」わけで、熱は体にとって「外敵と戦うための武器」の一つというわけです。



ということで、「熱が出る」のには「ちゃんと意味がある」のです。






私たちは普通こんな小難しい理屈を意識して、「熱を出して」いるわけではありません。何千年・何万年という経験から得た知恵が、遺伝子レベルで体に蓄積されていて、私たちがそれを知っていようと、知っていまいと、体が自動的に「熱を出す」という選択をしてくれているのです。


一説では、ガン細胞も高熱に弱いと言われていて、ガンにかかった方が、高熱を出した後、奇跡的に快方に向かった。というようなことを耳にすることも時々あります。


「体を温める」ことの重要性は最近よくメディアでも取り上げられていますし、「体温をあげて健康になろう」という類の本もよく出版されていますが、それにはこういう背景があります。







僕は、健康体の成人であれば、40℃を超えるような高熱でもない限り、無理に薬で下げない方がよいのではないかと思っています。それは、マラリアの例でも分かるように、私たちには理解できなくても、体が何らかの理由によって「発熱」するという選択をしているからです。


そこには何千年・何万年(もしかしたらもっと)をかけて受け継がれている「人という種」としての「体」の叡智が働いているわけで、時として自分達には理解できなかったとしても、「体」がやることには何らかの意味があるのだ。と僕は信じています。






また私たちの体に備わった免疫機能自体も、困難を乗り越える度に更に強くなります。


風邪をひいて熱がでて、辛いから薬をのめば楽にはなるでしょう。でももっと強いウイルスにかかったらどうするのでしょう?

そして、もしそれが治療薬のないものであったら?






恐らくそこで生死を分けるのは、私たちの体の「免疫力」です。


大したことでもないのにいちいち薬に頼っていると、体の「力」がその本来の働きを忘れてしまい、いざという時に働きが鈍るのではないかと僕は思います。(なので何年か前に、最近話題になったデング熱にブラジルでかかった時も、薬を使わず治しました。)




ちなみに「がん」は現代において誰もが恐れる病気ですが、健康な人であっても、ガン細胞は毎日数百個~数千個、体の中にできているということは知っていたでしょうか?

でも、私たちの体にはこの「免疫」機能がちゃんと働いていて、それらのガン細胞取り壊しているために、ガン細胞が増えることはありません。逆をかえせば、「がん」になるのは、この「免疫」機能が弱まり、その増殖を抑えられなくなるからです。

そういうことを知れば、体の「免疫力」を高めることが、いかに大切か分かるのではないでしょうか?





そこで考えてみましょう。

その熱、それでも解熱剤で下げますか?












ちなみに現在では、西洋医学会でも、「軽微な発熱であれば解熱剤は使わない方がよい」、という考え方が広まりつつあるようです。





(但し、お年寄りやお子さんの場合、成人であっても体力や精神力の弱っている場合などは、そもそもの免疫力がそれほど強くないので、十分注意をした方がよいでしょう。)

もしこういうことにご興味があれば、野口生体の創始者、野口晴哉先生のご本を読んでみてください。体について、心について、色々な発見があって面白いと思います。










2014年11月10日月曜日

「うつ病」のマーケティング






先日とても興味深い本を読みました。それは


『クレイジー・ライク・アメリカ 心の病はいかに輸出されたか』(イーサン・ウォッターズ著、阿部宏美訳)


という本で、学術的な上に非常に長いのでわりと読みにくい本ですが、ザクッとまとめると、「うつ病」がどの様に日本で広がっていったかが書かれています。









別の言い方をすると、それは、『あるアメリカの製薬会社が、どの様にして「うつ病」の「治療」薬(SSRI/抗欝剤)を日本に広めていったか』という姿とも重なります。

まずは当たり前のことなのに忘れがちですが、薬を作っている会社は基本的に営利団体ですので、利益をあげなければなりません。その薬を買う人がいればいるほど、薬は売れます。





今では非常に一般的になった「うつ病」ですが、1990年代以前の日本には、アメリカでは既に一般的であった「うつ病」という概念自体が殆どありませんでした。ごく一部の場合を除いて、現在「うつ病」と診断されるであろう精神状態の殆どは、正常な精神の働きの中の一部(長い落ち込みなど)と考えられていて、それが「異常」であり「治療」が必要なものであるとは考えられていなかったし、「治療」ができるものであるという発想もありませんでした。

従ってその製薬会社としては、利益をあげるためにはまず、「うつ病」という概念を定着させることが、自社の薬を売るマーケティング戦略の第一歩となります。

その戦略に従い、巨額を投じて、「うつは心の風邪」というキャッチコピー、メディアでの特集やCMなどにより、「うつは誰でもかかる」こと、「抗欝剤は風邪薬と同じくらい気軽なもの」というイメージが日本に定着し、これまで「存在」しなかった「うつ病」という概念が急速に日本に広まっていきました。



そこで登場するのが、それを治してくれる「治療薬」です。それを飲めば「うつ病」の方達が「治る」のであれば、苦しんでいる人たちは助かり、製薬会社にも利益がでるわけで、うつ病で苦しむ人も、薬を開発し販売する人達も、誰もが得をするわけだし、何の問題もないように思えます。







が、しかし、その「治療」薬の効果はどの様に測定されていたのでしょうか?

この本では、その製薬会社が、自社の薬に対して好意的な研究成果を発表した学者や研究者達を優遇し、金銭面などでサポートをしていた実情が描かれています。これらの研究者達は、豊富な研究資金を得て、学会での発表の機会を与えられ、出世してゆくことになります。

逆に、自社の薬に対して否定的な研究成果は、発表の場を与えなかったり、あるいは内容を書き換えるなどしていたということが明らかにされています。




後に、この会社に対する訴訟が起きたことにより、多くの研究者が何十万ドル(時には何百万ドル)もの顧問料や講演料を受け取る代わりに、この薬の効果を検証したように装って、否定的なデータを隠したり、捏造したりしていることも知られるようになりました。

また抗欝剤に関して、最も影響力のある研究論文の多くが、著名な研究者が書いたように見せかけて、実際は製薬会社の雇った民間のゴーストライターの手によるものであったことも発覚しました。


握りつぶされた否定的な研究発表の中には、抗欝剤の中毒性や、抗欝剤による入院率や自殺企図率の上昇なども含まれていたそうです。







現在「うつ病」が爆発的に広まっているという事実も、ストレスや精神的なうんぬんという個人の視点ではなく、こういったPRやマーケティングというビジネス的な視点から眺めてみると、また違った姿が浮かび上がってくるのかもしれません。

(この製薬会社の抗欝剤は、日本導入初年度に1億ドル、2002年度に4億ドル、2008年には10億ドル規模以上の市場となったそうです。)







もちろん、その製薬会社で働く方々は、「うつ病の人達を救おう」という善意で、その薬が本当に効果があると信じて行動していらっしゃるのでしょう。そして実際にそれで助かった方もたくさんいらっしゃるのでしょう。また、この本に書かれていることが全て真実とは限りません。


しかしつい何ヶ月か前にも、日本のある製薬会社による降圧剤の効果に対する研究の捏造が問題になったばかりです。

恐らくこのようなことは、「うつ病」に限らず、どんな「薬」でもありえることは想像に難しくありません。薬の効用を証明するには研究が絶対必要である以上、製薬会社と研究者の関係は無くなりようがないはずですし、それが常に公正中立なものとは限りません。






この様な話を知った上で、

「今のんでいるこの薬は果たして…?」




と考えてみることも、たまには必要かもしれません。

善意を信じることは大切ですし、何でもかんでも疑ってかかるのも考えものですが、個人的には、「お医者さんが言ったからと言って、何でもかんでも飲んでしまうのもどうなんだろう?」といつも色んな方を診ながら思っています。





どんな薬でも副作用のないものはありません。特にご年配の方々が、ラムネみたいに毎食何種類も薬を飲む姿を見ていると、疑問に思います。



「果たしてこれって医療のあるべき姿なのかな?」






*ちなみに、SSRIはセロトニンなど脳内の化学物質のバランスを再調整するものだとされていますが、一般的に広まっている「うつ病=セロトニン不足」という説は、1950年代にジョージ・アシュクロフトという研究者によって提唱されたものの、その後の研究で全く反対の結果が示されたため、1970年頃アシュクロフトは「セロトニンの減少とうつ病に関連性はない」と認め、以来今までそのつながりが証明されたことはない。



と、この本には書かれていました。

2014年11月1日土曜日

怒りを捨てる その2 〜 価値観を知る




昔々ある人が、『世の中には、人を最も苦しめる3つの猛毒がある。それは貪ぼりの心(「貪」)、怒りの心(「瞋」)、無知・無明(「痴」)だ』と世の人に説きました。

以来2000年以上、この「三毒」や「四苦」・「八苦」から生じる憂いや哀しみを克服し、より良く生きるためのコツやウンチク(「法」)を説いて伝えているのが仏教です。(と僕は理解しています。)

キリスト教についてはあまり詳しくありませんが、この「度を越した欲」と「怒り」はカトリック教会の「七つの大罪」にも入っているようです。





まあつまり、洋の東西を問わず、時代を越えて時を越えて、それだけ昔から怒りの心に振り回される人が多かったし、今でもそれは全く変わっていない、ということなのでしょう。

誰だってイライラしたり、心配したり、哀しんだりして過ごすのが楽しくてしょうがない、という人はいないはずです。怒りや憂いや哀しみから解放されて幸せに過ごしたいというのは、貧富を問わず、時代を越えて、地域を越えて、全ての人が求めることでしょう。



そんなわけで今回も引き続き、怒りから(ちょっとでも)解放されるためのステップその2です。





前回は「怒り」は二次感情であって、まずはその裏にある自分の本当の気持ちや想い(一次感情)に「気が付く」ことが大切だと書きました。



どうでしょうか、試してみましたか?
うまくできたでしょうか?

今回はもう一歩進んでみましょう。







例えばメールが返ってこなくてイラッとしたとしたら、それは「(私への)メールは返すのが当たり前」と思っているからであって、「メールは返ってこなくて当たり前」と思っていれば、そのことに対して腹を立てたり、傷ついたりすることはありません。


同じ様に、「(彼氏/彼女/夫/妻/親/子供/上司/部下/友達…)だったら~するのが当たり前、~してくれるべき」と思っているからこそ、その人が何かをしてくれなかった時カチンとくるわけで、そこには自分の「価値観」や「思い込み」が隠れています。





私たちには価値観や思い込みからくる期待があり、その期待が裏切られた時、私たちの心は動きます。この「価値観」や「思い込み」は生まれて育った環境などによって形作られ、普通は自分で意識することもありません。そのためそれに気が付くことは、前回書いた自分の本当の「気持ち」(一時感情)に気が付くよりも少し難しいことですが、それができるようになれば、そもそも「怒る」ことは段々となくなっていきます。



一次感情に気が付くことはとても大切なことですが、それだけでは根本的に「怒り」から解放されることはありません。別のタイミングで同じようなことがあれば、きっと同じように反応するだけです。でも自分の持っている「価値観」や「思い込み」に気が付くことができれば、それだけでも、同じことがあってもそもそも心の揺れが生じること自体が減っていきます。







そしてもし自分の価値観や思い込みに気が付くことができたなら、果たして本当に「その自分の信じている価値観は正しいのか?」考えてみることも大切です。よくよく冷静に考えてみると、自分が「正しい」と思っていることは、案外自分だってそれをちゃんとできていないし、必ずしも「正しい」とは限らない、ということに気が付くでしょう。



万が一、それは絶対正しいし自分はきちんとそれができている、と思うのであれば、今度は「その価値観を持っていることは自分にとって有益か?」考えてみましょう。


基本的に「~だったら~べき」という様な価値観や思い込みを持っていれば持っている程、人生は生きづらくなります。必要な荷物まで捨てることはありませんが、余計な荷物をしょって道を歩くのは疲れます。捨てた方がよい荷物は捨ててしまった方が生きていくのは楽にはなることでしょう。







その様に自分の価値観を観察するうちに、今自分が「当たり前」と思っていることが、どんどんと変わっていくはずです。そして今「当たり前」と思っていることに対して、ごく自然に「感謝」の気持ちが生まれてくる時が必ずきます。







今回はかなり抽象的な話になってしまいましたが、まずはやってみるとどういうことか実感して頂けるはずです。やり方さえ掴めば、自転車に乗るように自然に出来るようになります。ただ初めは自分ひとりではコツが掴みにくいかもしれません。こういうことにご興味があれば、それに特化したカウンセリング/コーチングセッションも行なっていますので、お気軽にご連絡ください。





ちなみに、この「価値観」や「思い込み」は私たちの意識のかなり深い部分にあるため、いきなりそこに到達することは中々難しいのではないかと思います。「気持ち」や「想い」はもう一段浅い所にありますが、このせわしない現代の生活の中では、そんな自分の気持ちや想いにすら、ちゃんと気が付いてあげることができていない人が大多数な気がします。



なので順番としては、まずは一番浅い所にある「呼吸」に意識を向けてあげるのがオススメです。

「呼吸」がちゃんと観察できるようになると、今度は自分の「体の感覚」に意識を向けられるようになります。そして「体の感覚」がしっかり分かってくると、深い意味で自分の「気持ち」や「想い」に向き合うことができるようになるでしょう。そして気付いているようで気付いていない、自分の「気持ち」や「想い」と深くコンタクトできるようになると、「価値観」や「思い込み」に気が付くのはそんなに難しいことではありません。





この辺りのことについてはまたいずれ詳しく書きたいと思いますが、まずは過去のブログ(→「呼吸」「体の声を聴く」)もご覧になってみてください。全体像としてはその様につながっています。今回はここで。




2014年10月15日水曜日

怒りを捨てる その1 〜 一次感情に気が付く





HP(www.totaltuning.jp)のプロフィールにも書きましたが、僕は元々かなり短気です。


「このままではいけない、変わらなきゃ」と本気で思ったのは、今から5~6年前で、その頃すごく好きだった女の子と喧嘩ばかりして、どうしてもうまくいかなかったことがきっかけでした。以来努力して変わろうとしてきて、少しずつ少しずつ怒りに流されることはなくなってきました。


最後に劇ギレして大失敗したのは2年半前で、その後死ぬほど反省したので、誰かに対して衝動的な怒りをぶつけたのは、それが最後だと思います。(多分…。)




今は誰に対してもイラッとすることはめったにないし(何ヶ月かに一度あるかないかくらい?)、あったとしてもそれに流されることは更に少ないつもりです。(もちろんゼロではありません。)こうなってみて、当たり前ですがやっぱりイライラしない方が疲れないし、生きてて楽だし楽しいです。断然。


それはたまたま今いる環境が良いおかげなのかもしれないし、そもそも一緒にいるとイラッとしそうな人達とは付き合わない様にしているせいかもしれないし、歳を重ねるごとに人間は誰しも丸くなっていくと世間では言うので、そのせいなのかもしれません。が、それだけではなく、意識的な努力のおかげでもあるような気がします。



なので、前置きが長くなりましたが、自分には「怒り」というものについて語る資格が多少なりともあるのではないか、と思っている次第です。






さて、怒りを制する第一歩は、それについて知ることです。
そもそも「怒り」って何でしょうか?考えたことはありますか?



現代の心理学では、「怒りは二次感情だ」と言われています。「二次」というぐらいだから当然「一次」があるわけで、「一次感情」というのは怒りの下にかくれた本当の気持ち、例えば寂しさであったり、不安であったり、傷ついた感じであったりするわけです。





どういうことかと言うと、例えば、メールをしたのに相手からは返信がなくてイライラし、「何でメールに返信しないのよ!」なんて言ってしまった場面があったとしましょう。


イラッとする気持ちも分かりますが、もしそこでイラッとしなかったとしたら、どんな気持ちを味わうでしょうか?


その時の気持ちが「一次感情」です。それは例えば「メールが返ってこなくて寂しい」という感情かもしれないし、「大切にされてない感じがする」という気持ちかもしれません。




人によってはただ「寂しいな」で終わる人もいますが、人によってはそこで止まらずに(というより止まれずに)、その気持ちを味わうことが嫌で、無意識的に、自動的に、「怒り」が湧き起こってきます。そして、その怒りによって相手を支配し、自分の望む行動をとらせようとします。


これが「怒り」のしくみです。







でもちょっと考えてみましょう。
怒りをそのままぶつけたからって望む結果が得られるのでしょうか?



大抵の場合は怒りをぶつけられると相手もイラッとするので、お互いに怒りをぶつけ合って何も解決しないまま終わることでしょう。あるいは、相手によっては短期的には怒りと恐怖で従わせることはできるかもしれません。しかし、それをずっと続けることは難しいでしょう。そしてもし例えそれができたとしても、それは健全な関係と言えないし、その状況は恐らくどちらにとっても幸せとは言えないでしょう。





そこで、大切なのは、「自分が本当は何を感じているのか」、そして「自分は本当は何を望んでいるのか」を知ることです。それは例えば先ほどの例で言えば、「返信がこなくて寂しい」という気持ちとか「大切にして欲しい」という想いとかです。


そして、素直にその気持ちや想いを伝えてみましょう。それは多分怒りをぶつけるよりちょっと勇気がいることだし、必ずしもそれが叶えられるとは限りませんが、少なくともただ怒りをぶつけるよりは、自分が本当に望んでいる状況に近づく可能性はずっと高いことでしょう。





ということで、今日のまとめです。

怒りを制する第一ステップは、怒りにのまれずに、「なぜ自分は怒っているのか?」、「本当は何を感じていて、何を望んでいるのか?」を知ること。



今度イラッとする場面があったら、ちょっと立ち止まって考えてみてください。







ちなみに「怒り」は肉体的な疲れとも関係があります。


僕は今でも疲れてくるとイラッとしやすくなるのを自覚しているので、苛立ちを少しでも感じたらまずは休んでみるようにしています。体が回復すると、大半のことは気にならなくなります。それでも駄目な場合は、多分そこにはちゃんとした理由があるので上記のようなことを考えることにしています。





ところで、怒りの裏には自分の価値観や信念が隠されています。例えばそもそも「メールは返ってこなくて当然」と思っていたとしたら、メールが返ってこなくて苛立つことはありません。「メールは返すべき」と思っているからこそ、返ってこないとイラッとするわけです。なので、第二ステップは自分の価値観や信念に気が付くことで、これもすごく大切なのですが、一度にすると話がややこしくなるので次回にゆずります。


➡️  怒りを捨てる2