2014年11月25日火曜日

Joy & Happiness




最近何でもない瞬間に「幸せだよな~」と感じることが多い。



近所の公園を散歩していて、木の葉が風に鳴っていて、木漏れ日がきらめいているだけで、何とも言えない幸せな気持ちに包まれる。雨の音が屋根に響くのを聞いていて、ただいいな、と思える。

そんな何でもないことを幸せだと感じられるようになったことが、何より幸せなのかもしれない。







昔は世界の果てまで旅しても、餓えていた。もちろん楽しかったけれど、満たされてはいなかった。白い砂浜に寝そべって、波音を聴いて、体はのんびりしていても、心はのんびりしていなかった。と今は分かる。



死ぬほど旅したからこそ分かった。
「どこにいるか」じゃないんだな、と。

死ぬほど旅をしたからこそ気がついた。
「あんなに旅をする必要はどこにもなかったな」と。

人生は面白い。
死ぬほど旅をした結論が、「旅をする必要はない」だとは。







有り余るほどお金をもったことはないけれど、多分お金も似たようなものでしょう。と何となく思う。そして他のものも。


きっとそれがこの世界のパラドックスなんだろうな。

ないうちは分からない、欲しい。欲しくてたまらない。
でも死ぬほどあると、なくても同じ、と分かる。

神様、やることが粋ですね。








昔読んだ本にJoyとHappinessは全く違うと書いてあった。

その意味が今ならよく分かる。



旅をすれば楽しい。映画を見れば楽しい。音楽を聴けば楽しい。好きな人と過ごす一時は楽しい。お酒を飲めば楽しい。薬にきまれば楽しい。


楽しいことは世の中にたくさんある。

けれど、楽しいものをいくらかき集めても幸せにはならないのね。残念ながら。







楽しみと幸せは根本的に違う。

楽しさは外側からやってくるけれど、幸せは内側からやってくる。
楽しみはやってきて去っていくけど、幸せはいつでもそこにある。



いつでもあるのに、気がつかない。
いつでもあるから、気がつけない。




これが人生の妙。

よく出来てるよなあ。







禅風にまとめてみた晩秋の雨の日でした。


2014年11月20日木曜日

「熱が出る」のは「悪い」こと?




突然ですが、「熱が出ること」 = 「悪いこと」 だと思っていませんか?


「熱が出ると頭は痛いし、体はだるいし、仕事も休まなきゃいけないし。さっさと解熱剤を飲んで下げてしまおう。」

そんな風に考えている方が世の中には多いと思います。




しかし、そもそも何故熱がでるのか知っていますか?






マラリアという病気があります。結構こわい病気で、僕の友人もアフリカでマラリアにかかってケープタウンで死にかけました。マラリアにもいくつか種類がありますが、基本的にどれもかかると高熱が出ます。




ではなぜ熱がでるのでしょうか?

マラリアという「病気が発熱を引き起こす」のでしょうか?




実はそうではありません。

熱が出るのは、「体が熱を使って病気を治そう」としているからです。





どういうことかというと、


マラリアと呼ばれる病気は、ハマダラカという蚊に刺されることによって、マラリア原虫という小さな小さな虫が血の中に入ることによって引き起こされます。この虫は体内に寄生すると、肝細胞で増殖し、赤血球を破壊しながら増えていこうとします。


赤血球は血液に乗って、「肺で取り入れた酸素を体の各部に運ぶ」という大切な役割を果たしていますので、これが壊されてしまうと、酸欠によって体の各部がダメージをうけることになります。これは体にとっては好ましくないことです。


そこで体に備わった「免疫」機能が働いて、この虫を体内から排除しようとします。赤血球と同じように血の中に住む、白血球やマクロファージがこの虫を感知し、捕まえて食べはじめます。この戦いが始まると、指令が脳にいき、体温が上がるのです。


それは、体温が上がると白血球の働きが高まり、逆にマラリア原虫の活動は熱によって制限されるからです。高熱がでて体が震えるのも、それによって熱が高めるために体が行なっていることです。





これが発熱の「しくみ」です。






つまりざっくり言うと、「体は高熱になることで虫を殺している」わけで、熱は体にとって「外敵と戦うための武器」の一つというわけです。



ということで、「熱が出る」のには「ちゃんと意味がある」のです。






私たちは普通こんな小難しい理屈を意識して、「熱を出して」いるわけではありません。何千年・何万年という経験から得た知恵が、遺伝子レベルで体に蓄積されていて、私たちがそれを知っていようと、知っていまいと、体が自動的に「熱を出す」という選択をしてくれているのです。


一説では、ガン細胞も高熱に弱いと言われていて、ガンにかかった方が、高熱を出した後、奇跡的に快方に向かった。というようなことを耳にすることも時々あります。


「体を温める」ことの重要性は最近よくメディアでも取り上げられていますし、「体温をあげて健康になろう」という類の本もよく出版されていますが、それにはこういう背景があります。







僕は、健康体の成人であれば、40℃を超えるような高熱でもない限り、無理に薬で下げない方がよいのではないかと思っています。それは、マラリアの例でも分かるように、私たちには理解できなくても、体が何らかの理由によって「発熱」するという選択をしているからです。


そこには何千年・何万年(もしかしたらもっと)をかけて受け継がれている「人という種」としての「体」の叡智が働いているわけで、時として自分達には理解できなかったとしても、「体」がやることには何らかの意味があるのだ。と僕は信じています。






また私たちの体に備わった免疫機能自体も、困難を乗り越える度に更に強くなります。


風邪をひいて熱がでて、辛いから薬をのめば楽にはなるでしょう。でももっと強いウイルスにかかったらどうするのでしょう?

そして、もしそれが治療薬のないものであったら?






恐らくそこで生死を分けるのは、私たちの体の「免疫力」です。


大したことでもないのにいちいち薬に頼っていると、体の「力」がその本来の働きを忘れてしまい、いざという時に働きが鈍るのではないかと僕は思います。(なので何年か前に、最近話題になったデング熱にブラジルでかかった時も、薬を使わず治しました。)




ちなみに「がん」は現代において誰もが恐れる病気ですが、健康な人であっても、ガン細胞は毎日数百個~数千個、体の中にできているということは知っていたでしょうか?

でも、私たちの体にはこの「免疫」機能がちゃんと働いていて、それらのガン細胞取り壊しているために、ガン細胞が増えることはありません。逆をかえせば、「がん」になるのは、この「免疫」機能が弱まり、その増殖を抑えられなくなるからです。

そういうことを知れば、体の「免疫力」を高めることが、いかに大切か分かるのではないでしょうか?





そこで考えてみましょう。

その熱、それでも解熱剤で下げますか?












ちなみに現在では、西洋医学会でも、「軽微な発熱であれば解熱剤は使わない方がよい」、という考え方が広まりつつあるようです。





(但し、お年寄りやお子さんの場合、成人であっても体力や精神力の弱っている場合などは、そもそもの免疫力がそれほど強くないので、十分注意をした方がよいでしょう。)

もしこういうことにご興味があれば、野口生体の創始者、野口晴哉先生のご本を読んでみてください。体について、心について、色々な発見があって面白いと思います。










2014年11月10日月曜日

「うつ病」のマーケティング






先日とても興味深い本を読みました。それは


『クレイジー・ライク・アメリカ 心の病はいかに輸出されたか』(イーサン・ウォッターズ著、阿部宏美訳)


という本で、学術的な上に非常に長いのでわりと読みにくい本ですが、ザクッとまとめると、「うつ病」がどの様に日本で広がっていったかが書かれています。









別の言い方をすると、それは、『あるアメリカの製薬会社が、どの様にして「うつ病」の「治療」薬(SSRI/抗欝剤)を日本に広めていったか』という姿とも重なります。

まずは当たり前のことなのに忘れがちですが、薬を作っている会社は基本的に営利団体ですので、利益をあげなければなりません。その薬を買う人がいればいるほど、薬は売れます。





今では非常に一般的になった「うつ病」ですが、1990年代以前の日本には、アメリカでは既に一般的であった「うつ病」という概念自体が殆どありませんでした。ごく一部の場合を除いて、現在「うつ病」と診断されるであろう精神状態の殆どは、正常な精神の働きの中の一部(長い落ち込みなど)と考えられていて、それが「異常」であり「治療」が必要なものであるとは考えられていなかったし、「治療」ができるものであるという発想もありませんでした。

従ってその製薬会社としては、利益をあげるためにはまず、「うつ病」という概念を定着させることが、自社の薬を売るマーケティング戦略の第一歩となります。

その戦略に従い、巨額を投じて、「うつは心の風邪」というキャッチコピー、メディアでの特集やCMなどにより、「うつは誰でもかかる」こと、「抗欝剤は風邪薬と同じくらい気軽なもの」というイメージが日本に定着し、これまで「存在」しなかった「うつ病」という概念が急速に日本に広まっていきました。



そこで登場するのが、それを治してくれる「治療薬」です。それを飲めば「うつ病」の方達が「治る」のであれば、苦しんでいる人たちは助かり、製薬会社にも利益がでるわけで、うつ病で苦しむ人も、薬を開発し販売する人達も、誰もが得をするわけだし、何の問題もないように思えます。







が、しかし、その「治療」薬の効果はどの様に測定されていたのでしょうか?

この本では、その製薬会社が、自社の薬に対して好意的な研究成果を発表した学者や研究者達を優遇し、金銭面などでサポートをしていた実情が描かれています。これらの研究者達は、豊富な研究資金を得て、学会での発表の機会を与えられ、出世してゆくことになります。

逆に、自社の薬に対して否定的な研究成果は、発表の場を与えなかったり、あるいは内容を書き換えるなどしていたということが明らかにされています。




後に、この会社に対する訴訟が起きたことにより、多くの研究者が何十万ドル(時には何百万ドル)もの顧問料や講演料を受け取る代わりに、この薬の効果を検証したように装って、否定的なデータを隠したり、捏造したりしていることも知られるようになりました。

また抗欝剤に関して、最も影響力のある研究論文の多くが、著名な研究者が書いたように見せかけて、実際は製薬会社の雇った民間のゴーストライターの手によるものであったことも発覚しました。


握りつぶされた否定的な研究発表の中には、抗欝剤の中毒性や、抗欝剤による入院率や自殺企図率の上昇なども含まれていたそうです。







現在「うつ病」が爆発的に広まっているという事実も、ストレスや精神的なうんぬんという個人の視点ではなく、こういったPRやマーケティングというビジネス的な視点から眺めてみると、また違った姿が浮かび上がってくるのかもしれません。

(この製薬会社の抗欝剤は、日本導入初年度に1億ドル、2002年度に4億ドル、2008年には10億ドル規模以上の市場となったそうです。)







もちろん、その製薬会社で働く方々は、「うつ病の人達を救おう」という善意で、その薬が本当に効果があると信じて行動していらっしゃるのでしょう。そして実際にそれで助かった方もたくさんいらっしゃるのでしょう。また、この本に書かれていることが全て真実とは限りません。


しかしつい何ヶ月か前にも、日本のある製薬会社による降圧剤の効果に対する研究の捏造が問題になったばかりです。

恐らくこのようなことは、「うつ病」に限らず、どんな「薬」でもありえることは想像に難しくありません。薬の効用を証明するには研究が絶対必要である以上、製薬会社と研究者の関係は無くなりようがないはずですし、それが常に公正中立なものとは限りません。






この様な話を知った上で、

「今のんでいるこの薬は果たして…?」




と考えてみることも、たまには必要かもしれません。

善意を信じることは大切ですし、何でもかんでも疑ってかかるのも考えものですが、個人的には、「お医者さんが言ったからと言って、何でもかんでも飲んでしまうのもどうなんだろう?」といつも色んな方を診ながら思っています。





どんな薬でも副作用のないものはありません。特にご年配の方々が、ラムネみたいに毎食何種類も薬を飲む姿を見ていると、疑問に思います。



「果たしてこれって医療のあるべき姿なのかな?」






*ちなみに、SSRIはセロトニンなど脳内の化学物質のバランスを再調整するものだとされていますが、一般的に広まっている「うつ病=セロトニン不足」という説は、1950年代にジョージ・アシュクロフトという研究者によって提唱されたものの、その後の研究で全く反対の結果が示されたため、1970年頃アシュクロフトは「セロトニンの減少とうつ病に関連性はない」と認め、以来今までそのつながりが証明されたことはない。



と、この本には書かれていました。

2014年11月1日土曜日

怒りを捨てる その2 〜 価値観を知る




昔々ある人が、『世の中には、人を最も苦しめる3つの猛毒がある。それは貪ぼりの心(「貪」)、怒りの心(「瞋」)、無知・無明(「痴」)だ』と世の人に説きました。

以来2000年以上、この「三毒」や「四苦」・「八苦」から生じる憂いや哀しみを克服し、より良く生きるためのコツやウンチク(「法」)を説いて伝えているのが仏教です。(と僕は理解しています。)

キリスト教についてはあまり詳しくありませんが、この「度を越した欲」と「怒り」はカトリック教会の「七つの大罪」にも入っているようです。





まあつまり、洋の東西を問わず、時代を越えて時を越えて、それだけ昔から怒りの心に振り回される人が多かったし、今でもそれは全く変わっていない、ということなのでしょう。

誰だってイライラしたり、心配したり、哀しんだりして過ごすのが楽しくてしょうがない、という人はいないはずです。怒りや憂いや哀しみから解放されて幸せに過ごしたいというのは、貧富を問わず、時代を越えて、地域を越えて、全ての人が求めることでしょう。



そんなわけで今回も引き続き、怒りから(ちょっとでも)解放されるためのステップその2です。





前回は「怒り」は二次感情であって、まずはその裏にある自分の本当の気持ちや想い(一次感情)に「気が付く」ことが大切だと書きました。



どうでしょうか、試してみましたか?
うまくできたでしょうか?

今回はもう一歩進んでみましょう。







例えばメールが返ってこなくてイラッとしたとしたら、それは「(私への)メールは返すのが当たり前」と思っているからであって、「メールは返ってこなくて当たり前」と思っていれば、そのことに対して腹を立てたり、傷ついたりすることはありません。


同じ様に、「(彼氏/彼女/夫/妻/親/子供/上司/部下/友達…)だったら~するのが当たり前、~してくれるべき」と思っているからこそ、その人が何かをしてくれなかった時カチンとくるわけで、そこには自分の「価値観」や「思い込み」が隠れています。





私たちには価値観や思い込みからくる期待があり、その期待が裏切られた時、私たちの心は動きます。この「価値観」や「思い込み」は生まれて育った環境などによって形作られ、普通は自分で意識することもありません。そのためそれに気が付くことは、前回書いた自分の本当の「気持ち」(一時感情)に気が付くよりも少し難しいことですが、それができるようになれば、そもそも「怒る」ことは段々となくなっていきます。



一次感情に気が付くことはとても大切なことですが、それだけでは根本的に「怒り」から解放されることはありません。別のタイミングで同じようなことがあれば、きっと同じように反応するだけです。でも自分の持っている「価値観」や「思い込み」に気が付くことができれば、それだけでも、同じことがあってもそもそも心の揺れが生じること自体が減っていきます。







そしてもし自分の価値観や思い込みに気が付くことができたなら、果たして本当に「その自分の信じている価値観は正しいのか?」考えてみることも大切です。よくよく冷静に考えてみると、自分が「正しい」と思っていることは、案外自分だってそれをちゃんとできていないし、必ずしも「正しい」とは限らない、ということに気が付くでしょう。



万が一、それは絶対正しいし自分はきちんとそれができている、と思うのであれば、今度は「その価値観を持っていることは自分にとって有益か?」考えてみましょう。


基本的に「~だったら~べき」という様な価値観や思い込みを持っていれば持っている程、人生は生きづらくなります。必要な荷物まで捨てることはありませんが、余計な荷物をしょって道を歩くのは疲れます。捨てた方がよい荷物は捨ててしまった方が生きていくのは楽にはなることでしょう。







その様に自分の価値観を観察するうちに、今自分が「当たり前」と思っていることが、どんどんと変わっていくはずです。そして今「当たり前」と思っていることに対して、ごく自然に「感謝」の気持ちが生まれてくる時が必ずきます。







今回はかなり抽象的な話になってしまいましたが、まずはやってみるとどういうことか実感して頂けるはずです。やり方さえ掴めば、自転車に乗るように自然に出来るようになります。ただ初めは自分ひとりではコツが掴みにくいかもしれません。こういうことにご興味があれば、それに特化したカウンセリング/コーチングセッションも行なっていますので、お気軽にご連絡ください。





ちなみに、この「価値観」や「思い込み」は私たちの意識のかなり深い部分にあるため、いきなりそこに到達することは中々難しいのではないかと思います。「気持ち」や「想い」はもう一段浅い所にありますが、このせわしない現代の生活の中では、そんな自分の気持ちや想いにすら、ちゃんと気が付いてあげることができていない人が大多数な気がします。



なので順番としては、まずは一番浅い所にある「呼吸」に意識を向けてあげるのがオススメです。

「呼吸」がちゃんと観察できるようになると、今度は自分の「体の感覚」に意識を向けられるようになります。そして「体の感覚」がしっかり分かってくると、深い意味で自分の「気持ち」や「想い」に向き合うことができるようになるでしょう。そして気付いているようで気付いていない、自分の「気持ち」や「想い」と深くコンタクトできるようになると、「価値観」や「思い込み」に気が付くのはそんなに難しいことではありません。





この辺りのことについてはまたいずれ詳しく書きたいと思いますが、まずは過去のブログ(→「呼吸」「体の声を聴く」)もご覧になってみてください。全体像としてはその様につながっています。今回はここで。