2015年7月6日月曜日

ルビンの壺と人生





人生ってこの絵みたいなものなのかもしれないな、と今朝起きてふと思いました。



この有名な「ルビンの壷」の絵は、見方によって壷にも向かい合った顔にも見えますが、人生も、見方によって、黒くもなれば白くもなるのでしょう。







私たちは毎日あらゆることに価値判断を加えて生きています。


同じコップを見ても、人によって「あと半分しかない」と思う人もいれば、「あと半分もある」と思う人もいる。

同じように、雨が降っても「ああ嫌だな、ぬれちゃう」と思う人もいれば、「ああ気持ちいい」と思う人もいる。





昔の人達はどうだったのか知らないけれど、どうも私たちの生きるこの現代では、放っておくと、私たちの心は「足りない」部分にフォーカスしがちなようです。



朝起きて、「腕もついてるし、目も見えるし、雨風がしのげる屋根の付いてる所で寝られて、しかもご飯もちゃんと食べられて、ああなんて幸せなんだろう」と思っている人はめったにいない気がします。


寝ても覚めても、「あれが足りない、これが足りない、あれがあれば、これがなければ、」そんなことを考えながら生きているのが普通でしょう。もちろん僕もそうです。





どこかにちょっと傷がある時は大げさに騒ぐわりには、「どこにも傷がない」ということに対しては何とも思わない。

ちょっと熱がある時は辛い辛いと言うけれど、「熱がない」時は「あ~嬉しい」とは思わない。

どこかに痛みがあると周り中の人にあそこが痛いとかここが痛いとか言うわりに、「痛みがない」時は「ね~ね~聞いてよ、どこにも痛みがなくてもう最高」とは言わない。(痛みがあって治った時は言うけれど)




よく考えてみると、それってわりと不思議なことなのかもしれません。







「失ってそのありがたみに初めて気が付くこと」が世の中にはたくさんあるけれど、「失う前にそのありがたみに気づいていられる」ことが幸せに生きるコツなのかもしれません。



目が見えて「あたりまえ」、耳が聞こえて「あたりまえ」。手も足もちゃんと動いて、ご飯が食べられるのが「あたりまえ」。誰かがご飯をつくってくれるのも「あたりまえ」で、お金を稼いできてくれるのも「あたりまえ」。電車が時間通りに動くのも「あたりまえ」で、蛇口をひねれば水がでるのが「あたりまえ」。





でもそれってほんとに「あたりまえ」?


蛇口をひねって水が出たら「お~!今日は水が出る!」と思う地域は世界にたくさんあるし、そもそも世界には水道がない地域の方が広い(はず)。

がんで余命を宣告されたら、生きているのを「あたりまえ」とは思えなくなる。

東京の大空襲の燃え盛る炎の中、子供を抱えて走っていた僕の祖母は、平和な暮らしを「あたりまえ」とは思わなかったはず。(少なくともその時は)






「あたりまえ」だと思ってると、感謝もしないし、価値も感じない。

そんなわけで、「あたりまえ」と思っていることが実はすごいことだ、と気が付くことが、幸せに生きるための第一歩なのかもしれません。





そんな「あたりまえ」と思っていることに一つ一つ気が付いて、感謝の気持ちが湧いてくれば、人生はどこにいようと、何をしていようと、わりと楽しくなってくるのかもしれません。