2014年11月20日木曜日

「熱が出る」のは「悪い」こと?




突然ですが、「熱が出ること」 = 「悪いこと」 だと思っていませんか?


「熱が出ると頭は痛いし、体はだるいし、仕事も休まなきゃいけないし。さっさと解熱剤を飲んで下げてしまおう。」

そんな風に考えている方が世の中には多いと思います。




しかし、そもそも何故熱がでるのか知っていますか?






マラリアという病気があります。結構こわい病気で、僕の友人もアフリカでマラリアにかかってケープタウンで死にかけました。マラリアにもいくつか種類がありますが、基本的にどれもかかると高熱が出ます。




ではなぜ熱がでるのでしょうか?

マラリアという「病気が発熱を引き起こす」のでしょうか?




実はそうではありません。

熱が出るのは、「体が熱を使って病気を治そう」としているからです。





どういうことかというと、


マラリアと呼ばれる病気は、ハマダラカという蚊に刺されることによって、マラリア原虫という小さな小さな虫が血の中に入ることによって引き起こされます。この虫は体内に寄生すると、肝細胞で増殖し、赤血球を破壊しながら増えていこうとします。


赤血球は血液に乗って、「肺で取り入れた酸素を体の各部に運ぶ」という大切な役割を果たしていますので、これが壊されてしまうと、酸欠によって体の各部がダメージをうけることになります。これは体にとっては好ましくないことです。


そこで体に備わった「免疫」機能が働いて、この虫を体内から排除しようとします。赤血球と同じように血の中に住む、白血球やマクロファージがこの虫を感知し、捕まえて食べはじめます。この戦いが始まると、指令が脳にいき、体温が上がるのです。


それは、体温が上がると白血球の働きが高まり、逆にマラリア原虫の活動は熱によって制限されるからです。高熱がでて体が震えるのも、それによって熱が高めるために体が行なっていることです。





これが発熱の「しくみ」です。






つまりざっくり言うと、「体は高熱になることで虫を殺している」わけで、熱は体にとって「外敵と戦うための武器」の一つというわけです。



ということで、「熱が出る」のには「ちゃんと意味がある」のです。






私たちは普通こんな小難しい理屈を意識して、「熱を出して」いるわけではありません。何千年・何万年という経験から得た知恵が、遺伝子レベルで体に蓄積されていて、私たちがそれを知っていようと、知っていまいと、体が自動的に「熱を出す」という選択をしてくれているのです。


一説では、ガン細胞も高熱に弱いと言われていて、ガンにかかった方が、高熱を出した後、奇跡的に快方に向かった。というようなことを耳にすることも時々あります。


「体を温める」ことの重要性は最近よくメディアでも取り上げられていますし、「体温をあげて健康になろう」という類の本もよく出版されていますが、それにはこういう背景があります。







僕は、健康体の成人であれば、40℃を超えるような高熱でもない限り、無理に薬で下げない方がよいのではないかと思っています。それは、マラリアの例でも分かるように、私たちには理解できなくても、体が何らかの理由によって「発熱」するという選択をしているからです。


そこには何千年・何万年(もしかしたらもっと)をかけて受け継がれている「人という種」としての「体」の叡智が働いているわけで、時として自分達には理解できなかったとしても、「体」がやることには何らかの意味があるのだ。と僕は信じています。






また私たちの体に備わった免疫機能自体も、困難を乗り越える度に更に強くなります。


風邪をひいて熱がでて、辛いから薬をのめば楽にはなるでしょう。でももっと強いウイルスにかかったらどうするのでしょう?

そして、もしそれが治療薬のないものであったら?






恐らくそこで生死を分けるのは、私たちの体の「免疫力」です。


大したことでもないのにいちいち薬に頼っていると、体の「力」がその本来の働きを忘れてしまい、いざという時に働きが鈍るのではないかと僕は思います。(なので何年か前に、最近話題になったデング熱にブラジルでかかった時も、薬を使わず治しました。)




ちなみに「がん」は現代において誰もが恐れる病気ですが、健康な人であっても、ガン細胞は毎日数百個~数千個、体の中にできているということは知っていたでしょうか?

でも、私たちの体にはこの「免疫」機能がちゃんと働いていて、それらのガン細胞取り壊しているために、ガン細胞が増えることはありません。逆をかえせば、「がん」になるのは、この「免疫」機能が弱まり、その増殖を抑えられなくなるからです。

そういうことを知れば、体の「免疫力」を高めることが、いかに大切か分かるのではないでしょうか?





そこで考えてみましょう。

その熱、それでも解熱剤で下げますか?












ちなみに現在では、西洋医学会でも、「軽微な発熱であれば解熱剤は使わない方がよい」、という考え方が広まりつつあるようです。





(但し、お年寄りやお子さんの場合、成人であっても体力や精神力の弱っている場合などは、そもそもの免疫力がそれほど強くないので、十分注意をした方がよいでしょう。)

もしこういうことにご興味があれば、野口生体の創始者、野口晴哉先生のご本を読んでみてください。体について、心について、色々な発見があって面白いと思います。










2014年11月10日月曜日

「うつ病」のマーケティング






先日とても興味深い本を読みました。それは


『クレイジー・ライク・アメリカ 心の病はいかに輸出されたか』(イーサン・ウォッターズ著、阿部宏美訳)


という本で、学術的な上に非常に長いのでわりと読みにくい本ですが、ザクッとまとめると、「うつ病」がどの様に日本で広がっていったかが書かれています。









別の言い方をすると、それは、『あるアメリカの製薬会社が、どの様にして「うつ病」の「治療」薬(SSRI/抗欝剤)を日本に広めていったか』という姿とも重なります。

まずは当たり前のことなのに忘れがちですが、薬を作っている会社は基本的に営利団体ですので、利益をあげなければなりません。その薬を買う人がいればいるほど、薬は売れます。





今では非常に一般的になった「うつ病」ですが、1990年代以前の日本には、アメリカでは既に一般的であった「うつ病」という概念自体が殆どありませんでした。ごく一部の場合を除いて、現在「うつ病」と診断されるであろう精神状態の殆どは、正常な精神の働きの中の一部(長い落ち込みなど)と考えられていて、それが「異常」であり「治療」が必要なものであるとは考えられていなかったし、「治療」ができるものであるという発想もありませんでした。

従ってその製薬会社としては、利益をあげるためにはまず、「うつ病」という概念を定着させることが、自社の薬を売るマーケティング戦略の第一歩となります。

その戦略に従い、巨額を投じて、「うつは心の風邪」というキャッチコピー、メディアでの特集やCMなどにより、「うつは誰でもかかる」こと、「抗欝剤は風邪薬と同じくらい気軽なもの」というイメージが日本に定着し、これまで「存在」しなかった「うつ病」という概念が急速に日本に広まっていきました。



そこで登場するのが、それを治してくれる「治療薬」です。それを飲めば「うつ病」の方達が「治る」のであれば、苦しんでいる人たちは助かり、製薬会社にも利益がでるわけで、うつ病で苦しむ人も、薬を開発し販売する人達も、誰もが得をするわけだし、何の問題もないように思えます。







が、しかし、その「治療」薬の効果はどの様に測定されていたのでしょうか?

この本では、その製薬会社が、自社の薬に対して好意的な研究成果を発表した学者や研究者達を優遇し、金銭面などでサポートをしていた実情が描かれています。これらの研究者達は、豊富な研究資金を得て、学会での発表の機会を与えられ、出世してゆくことになります。

逆に、自社の薬に対して否定的な研究成果は、発表の場を与えなかったり、あるいは内容を書き換えるなどしていたということが明らかにされています。




後に、この会社に対する訴訟が起きたことにより、多くの研究者が何十万ドル(時には何百万ドル)もの顧問料や講演料を受け取る代わりに、この薬の効果を検証したように装って、否定的なデータを隠したり、捏造したりしていることも知られるようになりました。

また抗欝剤に関して、最も影響力のある研究論文の多くが、著名な研究者が書いたように見せかけて、実際は製薬会社の雇った民間のゴーストライターの手によるものであったことも発覚しました。


握りつぶされた否定的な研究発表の中には、抗欝剤の中毒性や、抗欝剤による入院率や自殺企図率の上昇なども含まれていたそうです。







現在「うつ病」が爆発的に広まっているという事実も、ストレスや精神的なうんぬんという個人の視点ではなく、こういったPRやマーケティングというビジネス的な視点から眺めてみると、また違った姿が浮かび上がってくるのかもしれません。

(この製薬会社の抗欝剤は、日本導入初年度に1億ドル、2002年度に4億ドル、2008年には10億ドル規模以上の市場となったそうです。)







もちろん、その製薬会社で働く方々は、「うつ病の人達を救おう」という善意で、その薬が本当に効果があると信じて行動していらっしゃるのでしょう。そして実際にそれで助かった方もたくさんいらっしゃるのでしょう。また、この本に書かれていることが全て真実とは限りません。


しかしつい何ヶ月か前にも、日本のある製薬会社による降圧剤の効果に対する研究の捏造が問題になったばかりです。

恐らくこのようなことは、「うつ病」に限らず、どんな「薬」でもありえることは想像に難しくありません。薬の効用を証明するには研究が絶対必要である以上、製薬会社と研究者の関係は無くなりようがないはずですし、それが常に公正中立なものとは限りません。






この様な話を知った上で、

「今のんでいるこの薬は果たして…?」




と考えてみることも、たまには必要かもしれません。

善意を信じることは大切ですし、何でもかんでも疑ってかかるのも考えものですが、個人的には、「お医者さんが言ったからと言って、何でもかんでも飲んでしまうのもどうなんだろう?」といつも色んな方を診ながら思っています。





どんな薬でも副作用のないものはありません。特にご年配の方々が、ラムネみたいに毎食何種類も薬を飲む姿を見ていると、疑問に思います。



「果たしてこれって医療のあるべき姿なのかな?」






*ちなみに、SSRIはセロトニンなど脳内の化学物質のバランスを再調整するものだとされていますが、一般的に広まっている「うつ病=セロトニン不足」という説は、1950年代にジョージ・アシュクロフトという研究者によって提唱されたものの、その後の研究で全く反対の結果が示されたため、1970年頃アシュクロフトは「セロトニンの減少とうつ病に関連性はない」と認め、以来今までそのつながりが証明されたことはない。



と、この本には書かれていました。

2014年11月1日土曜日

怒りを捨てる その2 〜 価値観を知る




昔々ある人が、『世の中には、人を最も苦しめる3つの猛毒がある。それは貪ぼりの心(「貪」)、怒りの心(「瞋」)、無知・無明(「痴」)だ』と世の人に説きました。

以来2000年以上、この「三毒」や「四苦」・「八苦」から生じる憂いや哀しみを克服し、より良く生きるためのコツやウンチク(「法」)を説いて伝えているのが仏教です。(と僕は理解しています。)

キリスト教についてはあまり詳しくありませんが、この「度を越した欲」と「怒り」はカトリック教会の「七つの大罪」にも入っているようです。





まあつまり、洋の東西を問わず、時代を越えて時を越えて、それだけ昔から怒りの心に振り回される人が多かったし、今でもそれは全く変わっていない、ということなのでしょう。

誰だってイライラしたり、心配したり、哀しんだりして過ごすのが楽しくてしょうがない、という人はいないはずです。怒りや憂いや哀しみから解放されて幸せに過ごしたいというのは、貧富を問わず、時代を越えて、地域を越えて、全ての人が求めることでしょう。



そんなわけで今回も引き続き、怒りから(ちょっとでも)解放されるためのステップその2です。





前回は「怒り」は二次感情であって、まずはその裏にある自分の本当の気持ちや想い(一次感情)に「気が付く」ことが大切だと書きました。



どうでしょうか、試してみましたか?
うまくできたでしょうか?

今回はもう一歩進んでみましょう。







例えばメールが返ってこなくてイラッとしたとしたら、それは「(私への)メールは返すのが当たり前」と思っているからであって、「メールは返ってこなくて当たり前」と思っていれば、そのことに対して腹を立てたり、傷ついたりすることはありません。


同じ様に、「(彼氏/彼女/夫/妻/親/子供/上司/部下/友達…)だったら~するのが当たり前、~してくれるべき」と思っているからこそ、その人が何かをしてくれなかった時カチンとくるわけで、そこには自分の「価値観」や「思い込み」が隠れています。





私たちには価値観や思い込みからくる期待があり、その期待が裏切られた時、私たちの心は動きます。この「価値観」や「思い込み」は生まれて育った環境などによって形作られ、普通は自分で意識することもありません。そのためそれに気が付くことは、前回書いた自分の本当の「気持ち」(一時感情)に気が付くよりも少し難しいことですが、それができるようになれば、そもそも「怒る」ことは段々となくなっていきます。



一次感情に気が付くことはとても大切なことですが、それだけでは根本的に「怒り」から解放されることはありません。別のタイミングで同じようなことがあれば、きっと同じように反応するだけです。でも自分の持っている「価値観」や「思い込み」に気が付くことができれば、それだけでも、同じことがあってもそもそも心の揺れが生じること自体が減っていきます。







そしてもし自分の価値観や思い込みに気が付くことができたなら、果たして本当に「その自分の信じている価値観は正しいのか?」考えてみることも大切です。よくよく冷静に考えてみると、自分が「正しい」と思っていることは、案外自分だってそれをちゃんとできていないし、必ずしも「正しい」とは限らない、ということに気が付くでしょう。



万が一、それは絶対正しいし自分はきちんとそれができている、と思うのであれば、今度は「その価値観を持っていることは自分にとって有益か?」考えてみましょう。


基本的に「~だったら~べき」という様な価値観や思い込みを持っていれば持っている程、人生は生きづらくなります。必要な荷物まで捨てることはありませんが、余計な荷物をしょって道を歩くのは疲れます。捨てた方がよい荷物は捨ててしまった方が生きていくのは楽にはなることでしょう。







その様に自分の価値観を観察するうちに、今自分が「当たり前」と思っていることが、どんどんと変わっていくはずです。そして今「当たり前」と思っていることに対して、ごく自然に「感謝」の気持ちが生まれてくる時が必ずきます。







今回はかなり抽象的な話になってしまいましたが、まずはやってみるとどういうことか実感して頂けるはずです。やり方さえ掴めば、自転車に乗るように自然に出来るようになります。ただ初めは自分ひとりではコツが掴みにくいかもしれません。こういうことにご興味があれば、それに特化したカウンセリング/コーチングセッションも行なっていますので、お気軽にご連絡ください。





ちなみに、この「価値観」や「思い込み」は私たちの意識のかなり深い部分にあるため、いきなりそこに到達することは中々難しいのではないかと思います。「気持ち」や「想い」はもう一段浅い所にありますが、このせわしない現代の生活の中では、そんな自分の気持ちや想いにすら、ちゃんと気が付いてあげることができていない人が大多数な気がします。



なので順番としては、まずは一番浅い所にある「呼吸」に意識を向けてあげるのがオススメです。

「呼吸」がちゃんと観察できるようになると、今度は自分の「体の感覚」に意識を向けられるようになります。そして「体の感覚」がしっかり分かってくると、深い意味で自分の「気持ち」や「想い」に向き合うことができるようになるでしょう。そして気付いているようで気付いていない、自分の「気持ち」や「想い」と深くコンタクトできるようになると、「価値観」や「思い込み」に気が付くのはそんなに難しいことではありません。





この辺りのことについてはまたいずれ詳しく書きたいと思いますが、まずは過去のブログ(→「呼吸」「体の声を聴く」)もご覧になってみてください。全体像としてはその様につながっています。今回はここで。




2014年10月15日水曜日

怒りを捨てる その1 〜 一次感情に気が付く





HP(www.totaltuning.jp)のプロフィールにも書きましたが、僕は元々かなり短気です。


「このままではいけない、変わらなきゃ」と本気で思ったのは、今から5~6年前で、その頃すごく好きだった女の子と喧嘩ばかりして、どうしてもうまくいかなかったことがきっかけでした。以来努力して変わろうとしてきて、少しずつ少しずつ怒りに流されることはなくなってきました。


最後に劇ギレして大失敗したのは2年半前で、その後死ぬほど反省したので、誰かに対して衝動的な怒りをぶつけたのは、それが最後だと思います。(多分…。)




今は誰に対してもイラッとすることはめったにないし(何ヶ月かに一度あるかないかくらい?)、あったとしてもそれに流されることは更に少ないつもりです。(もちろんゼロではありません。)こうなってみて、当たり前ですがやっぱりイライラしない方が疲れないし、生きてて楽だし楽しいです。断然。


それはたまたま今いる環境が良いおかげなのかもしれないし、そもそも一緒にいるとイラッとしそうな人達とは付き合わない様にしているせいかもしれないし、歳を重ねるごとに人間は誰しも丸くなっていくと世間では言うので、そのせいなのかもしれません。が、それだけではなく、意識的な努力のおかげでもあるような気がします。



なので、前置きが長くなりましたが、自分には「怒り」というものについて語る資格が多少なりともあるのではないか、と思っている次第です。






さて、怒りを制する第一歩は、それについて知ることです。
そもそも「怒り」って何でしょうか?考えたことはありますか?



現代の心理学では、「怒りは二次感情だ」と言われています。「二次」というぐらいだから当然「一次」があるわけで、「一次感情」というのは怒りの下にかくれた本当の気持ち、例えば寂しさであったり、不安であったり、傷ついた感じであったりするわけです。





どういうことかと言うと、例えば、メールをしたのに相手からは返信がなくてイライラし、「何でメールに返信しないのよ!」なんて言ってしまった場面があったとしましょう。


イラッとする気持ちも分かりますが、もしそこでイラッとしなかったとしたら、どんな気持ちを味わうでしょうか?


その時の気持ちが「一次感情」です。それは例えば「メールが返ってこなくて寂しい」という感情かもしれないし、「大切にされてない感じがする」という気持ちかもしれません。




人によってはただ「寂しいな」で終わる人もいますが、人によってはそこで止まらずに(というより止まれずに)、その気持ちを味わうことが嫌で、無意識的に、自動的に、「怒り」が湧き起こってきます。そして、その怒りによって相手を支配し、自分の望む行動をとらせようとします。


これが「怒り」のしくみです。







でもちょっと考えてみましょう。
怒りをそのままぶつけたからって望む結果が得られるのでしょうか?



大抵の場合は怒りをぶつけられると相手もイラッとするので、お互いに怒りをぶつけ合って何も解決しないまま終わることでしょう。あるいは、相手によっては短期的には怒りと恐怖で従わせることはできるかもしれません。しかし、それをずっと続けることは難しいでしょう。そしてもし例えそれができたとしても、それは健全な関係と言えないし、その状況は恐らくどちらにとっても幸せとは言えないでしょう。





そこで、大切なのは、「自分が本当は何を感じているのか」、そして「自分は本当は何を望んでいるのか」を知ることです。それは例えば先ほどの例で言えば、「返信がこなくて寂しい」という気持ちとか「大切にして欲しい」という想いとかです。


そして、素直にその気持ちや想いを伝えてみましょう。それは多分怒りをぶつけるよりちょっと勇気がいることだし、必ずしもそれが叶えられるとは限りませんが、少なくともただ怒りをぶつけるよりは、自分が本当に望んでいる状況に近づく可能性はずっと高いことでしょう。





ということで、今日のまとめです。

怒りを制する第一ステップは、怒りにのまれずに、「なぜ自分は怒っているのか?」、「本当は何を感じていて、何を望んでいるのか?」を知ること。



今度イラッとする場面があったら、ちょっと立ち止まって考えてみてください。







ちなみに「怒り」は肉体的な疲れとも関係があります。


僕は今でも疲れてくるとイラッとしやすくなるのを自覚しているので、苛立ちを少しでも感じたらまずは休んでみるようにしています。体が回復すると、大半のことは気にならなくなります。それでも駄目な場合は、多分そこにはちゃんとした理由があるので上記のようなことを考えることにしています。





ところで、怒りの裏には自分の価値観や信念が隠されています。例えばそもそも「メールは返ってこなくて当然」と思っていたとしたら、メールが返ってこなくて苛立つことはありません。「メールは返すべき」と思っているからこそ、返ってこないとイラッとするわけです。なので、第二ステップは自分の価値観や信念に気が付くことで、これもすごく大切なのですが、一度にすると話がややこしくなるので次回にゆずります。


➡️  怒りを捨てる2






2014年10月1日水曜日

言葉の力 〜 コトバが人生を変える?






思うに、本来の「ありのまま」の世界には、絶対的な善悪とか美醜という区別はないのだと思います。



平時に人を殺せば「極悪人」「悪魔」と罵られ、戦争で人を殺せば「軍神」「英雄」と讃えられ、それが戦争に負けたら「戦争犯罪人」と蔑まれるのが私たちのいる世界です。どんな絶世の美男美女でも、ゴキブリからみたらただのばかでかい怪物であって恐怖の対象でしかないだろうし、でかくて力強くて賢いゴキブリ界のカリスマゴキブリ(きっといるのだと思いますが)でも、我々から見たらただの嫌悪の対象でしかないわけで、私たちが勝手に絶対だと思いこんでいる価値判断や基準なんて、そんなに簡単にコロコロ変わってしまう、その程度のちっぽけなものなのでしょう。



それを「美しい」と思うからこそ「美しい」ものがあり、それを「善い」と思うからこそ「善い」ものがある。「美しい」と思う心がなければ「美しい」ものはないし、「善い」と思う心がなければ「善い」ものもなく、そこには世界がただ「そのまま」あるだけ。

今私たちが見ている世の中を、今私たちが見ている様に在らしめているのは、私たちの「意識」であり、「思考」です。そして、その意識や思考をまとめ上げているのが「言葉」で、思考は言葉によって成り立っています。ある意味「言葉」が私たちの見ている「世界」を創っている、と言っても言い過ぎではないでしょう。





昔々読んだある本に、『「分かる」とは「分ける」こと。私たちは、言葉で世界を切り分けなければ、ものごとを認識することができない。「美しい」ものがあるからこそ「醜い」ものがあり、「善い」ものがあるからこそ「悪い」ものがあるわけで、本来は何もない一つのところから、「美しい」ものと「醜い」もの、「善い」ものと「悪い」もの、を切り分けて区別しているのが私たちの「思考」であり「言葉」だ。』

という様なことが書いてあって、「なるほどな~」と思い、それが僕が言葉に興味を持ち、大学で文転して言語学を学ぼうと思った一つのきっかけであったわけですが、それはさておき。





そんな「言葉」で私たちどんな「世界」を切り取っているのでしょうか?

どうせ自由に切り取れる世界であるならば、いっそ美しい世界を切り取ってみるというのはいかがでしょうか?



僕が3~4年前から、「言葉」についてすご~く意識をして気をつけていることがいくつかあって、それは僕の世界を大きく変えたので、是非ここでその一つをご紹介しておきたいと思います。実体験なので確かです。それは



「不平・不満・愚痴・悪口・批判・非難」その他あらゆるネガティブな言葉をできる限り口にしない。そして、そういう言葉を常に多用する人や場に近づかない。



というものです。それまでは無自覚に、そんな「毒」を撒き散らして生きてきましたが、それを意識するようになり、実際やってみて、そういうことを口にしない様になってくると、段々とそもそもそういうことをあまり心にも思わない様になってくるから不思議なものです。





大体、不平や不満や愚痴を言ったからって何の意味があるのでしょう?

自分は思い出して気分が悪くなるし、聞いている人も気分が悪くなるし、悪口や批判に至っては、言われた人の気分はもう最悪。何一つ良いことはありません。「笑顔」の真逆です。



(とは言え、本気で調子が悪い時、どうしても言いたくなる時はあるし、言わなきゃやってられない。そんな時は確かにあります。分かります。なので、そんな時は聞いてくれている人には相~当感謝するようにしています。)





「言葉」を変えれば「思考」が変わる。
「思考」が変われば「行動」が変わる。
「行動」が変われば「人生」が変わる。

僕はそう思います。





多分「思考」をいきなり変えることは普通できませんが、「言葉」はちょっと意識すればわりと簡単に変えることがでます。まずは自分が普段どんな「言葉」をつかっているのか意識してみると面白いかもしれません。多くの人は無自覚に「毒」をまきちらして生きていることに気が付くでしょう。そしてそれを止めると大きく、生き方も周りの環境も変わることに驚くことでしょう。時間はかかるかもしれませんが試してみる価値はあると思います。





ちなみに僕は一昨日思い切りある人の悪口を言いました。ま、でも完璧を目指すと疲れるし、めったにないことなので(つもり)それはそれでいいや。と思っています。「絶対言わない!」とか気負わずに、ゲーム感覚で気楽に楽しんでやるくらいで丁度いいのではないか、と個人的には思っています。



皆さんも、もし今まで意識したことがなかったのならば、是非この遊びを試してみてください。







2014年9月15日月曜日

運動はどうして体にいいの?



よく色々なお客様に

「やっぱり運動とかした方がいいんですか?」 とか

「どんな運動をすればよいのでしょうか?」 と

聞かれることがあるので、今回は運動について、僕の考えていることを書いておきます。

(全く科学的根拠はありませんが、体感と自然の理として、きっとそう間違ってはいないのではないかと思います。)






さて、人間の体の殆どは何でできているかご存知でしょうか?

そう。「水」です。人体の半分以上は「水」でできていて、年齢によって異なりますが、成人では体の60~70%を水分が占めています。



では、水の特徴は何でしょう?
水をコップにいれたままずっと放置しておくとどうなるでしょうか?

水道水は相当量の塩素が入っているので相当置いておいても中々腐りはしませんが、自然界では普通、流れのない水は淀んで腐ります。



当然体内においても、流れの滞っている部分では水が「淀み」、身体に悪影響を与えているはずです。従って、この体内にある水分を淀ませることなく、循環させてあげることが非常に大切です。





恐らく体の不調の殆どは、ストレスや怪我や生活習慣などによって、特定の部分に、「血」や「水」(体液)、更に言えば「気」(意識)が偏り、ある部分にはあまりそれらが通わないことから生じるのではないか。それが慢性化して、筋肉の歪みをつくったり、内臓に異変を生じさせたりするのではないか。と僕は考えています。



実際、科学的にも、痛みと言うのは細胞に酸素(血が運ぶ)が届かないことによる「酸欠状態」が引き起こすと言われていますし、(これはつまり、「ちゃんと細胞に血が通っていれば痛みは起きない」ということです。)恐らくそう間違ってはいないでしょう。





流れの速い川が、淀んだり濁ったりすることがないのと同じ様に、基本的には、体内の「巡り」が良くなれば「淀み」は自然と消えていくはずです。つまり、健康でいるためには、体の隅々にくまなく「気」や「血」や「水」を巡らせることが大切で、そのために重要な役割を果たすのが「運動」です。



体を動かすことによって、体内の血液やリンパ液、その他様々な体液は、勢いをつけて巡り始め、その質が保たれます。(お風呂に入るのが体に良い、というのも同じ理由からだと僕は思います。)





仕事にしろ家事にしろ移動にしろ、何をするのにも体を使うことが必要とされた昔の生活と違い、現代の私たちの生活では、体を使うことが非常に少なくなってきています。一日中座ってパソコンと机に向かって仕事をしている方も多いですし、家事にしても、火を起こす必要もなく、水を汲む必要もなく、洗濯もスイッチ一つで簡単にできてしまいます。



もちろん生活が楽になったことは、それはそれで素晴らしいことですが、私達はともすると、一日を殆ど体を使わずに過ごしています。昔であれば、わざわざ「運動」の重要性を強調しなくても日常の生活の中できちんと体が使われ、それによって良い循環が保たれていました。しかし、現代は違います。私たちは、意識して体を使い、「気」「血」「水」の循環を良くしてあげることが、健康を保つ上で必要となっています。





では最後に、どんな「運動」をすればよいのでしょうか?



僕は、基本的には、ヨガでもクライミングでもサッカーでも、好きなことを適度に(これが重要)やるのが一番よいのではないかと思います。運動には色々な形がありますが、ごく一部のアスリートの方でない限り、私たちは過度なトレーニングをする必要はないと思います。



ただし、「体の健康を維持する」という観点だけから見れば、「歩く」だけでも十分。と僕は感じています。歩いていると、血の巡りがよくなっているからか、色々なアイデアをひらめいたりすることもありますし、若者から年配の方まで無理なくできますので、特に何も体を動かすことをしていない方は、歩くことから始めてみることをオススメしています。



できれば公園や川沿いなど、空気が比較的きれいで、歩いていて気持ちがよくなる所を歩くのがオススメです。ちょうど過ごしやすい季節になってきましたし、何をしたらよいのか分からない、という方は是非試してみて下さい。





2014年9月1日月曜日

Eva Cuore Body 近くのおすすめのお店1



毎回健康についての真面目な話ばかりでは読むのも疲れると思うので、時々は今の仕事場、Eva Cuore Bodyの近くで僕が気に入っている、おすすめのカフェなどのご紹介もしたいと思います。セッションにいらっしゃる前や、終わってからちょっと一息つきたい時に是非いらしてみてください。



今回はその1.「Cafe Natural Stance

ちょうど僕がこのエリアで働き始めた頃にできたカフェで、わりとしょっちゅう来るお店です。



このお店のどこがそんなに気に入っているかと言うと、まずは何と言っても綺麗で広々としたスペース。竹下通りから明治通りをはさんでそのまま伸びる、超繁華街のど真ん中にありながら、地下にあるためわりと静かで、天井も高くゆったりくつろげる。そんなお店です。

大きく広がったガラス張りの窓から、外の光が十分に入ってくるので、地下のお店にありがちな閉塞館も全くなく、ちょっと喧騒から離れて、のんびりできます。



ご飯もカラダに優しい感じで中々美味しく、ランチタイムには色々なメニューの中から3つ選んで食べられるセットもあり、ちょっとずつ色んなものを食べられて楽しむことができ、しょっちゅういってもわりと飽きさせません。個人的にはここのドリアがわりと好きで、特に寒い時期になってきて、体があったまるものが恋しくなると食べにゆきます。



(一つだけ難点を言うとしたら、土日はたまに10代~20代の女の子で一杯の時があり、一人で行くと時々場違い感がする時があるのはまあよいとしても、全席喫煙可能なのが非常にいただけないので、完全に禁煙にしてくれたらな~。と毎回思います。)



セッション前後にちょっとのんびりしたい時に是非一度いらしてみてください。